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2012年4月13日 (金)

自分が良ければそれでいいのだ

P1020069最近の話だけど若い写真をやっている人が、ちょっとウルサい人に云われたそうな。「ハーフ判で作品なんか作っちゃダメだ。デジタルも画素数の高いのを使わなきゃダメだ」ウッセーなwその人の作品意図でフォーマットは決まるんだから放っといてくれよと思う。ぼくもハーフを使うこともあるし、中判の時もある。どう被写体を表現するか、で原版サイズを決めているというしかない。あとどれほどの大きさで見せるか、というのもあるしね。絵画だって表現したいものや意図でキャンバスの大きさが決まるだろ。ユルいからハーフ、ってなことじゃないし、高精細な絵を見せたいから中判にした、という決まりもない。このサイズで撮りたい、見せたい、ってのがあればそれでいいじゃないか。

確かに風景などは高精細な絵で見せられるといいよね。ラージフォーマットで撮られた絵は確かに違うのだ。でも、スナップや町の情景はどうかといえば被写体の捉え方でハーフの方がいいなってこともあるんだよ。写り過ぎはけしていい結果をもたらすとも限らないんだ。(一昨年富山でハーフを使ったのも、この町はハーフで表現したいって思ったからだ)
もっと云えば別にデジタルだって画素数に依存せずに甘い方がなんとなく情感が出ることだってあるんだからさ。そりゃ500万画素程度のカメラで全紙はキツいかもしれないが、だからと云ってダメだとも云いがたい。昨年の秋に小樽で写真展を行ったフィルム一本勝負展、一番大きなA1サイズの絵は300万画素程度にスキャンされたデータから作っている。近寄って見れば荒さはあるが、元がフィルムのせいもあって画質面で文句を云われたことはなかった(と思う)。

そういうことじゃないんだ。作品ってのは、さ。ぼくの町の絵は白飛びしたのもあるし、黒がつぶれているのもある。それは別に飛んだからってそこを見てくれ、とも思わないし、つぶした所はつぶれていい箇所なのだ。一応講師だから風景なんかじゃ諧調は大事だとは云うよ。でも、それだって見せたい部分がちゃんと意図されているなら、そこさえしっかり表現すればいいんじゃない?と思うね。

ぼくはリバーサルをあまり使わないけど、町の写真はネガでいいと思っている。カラーなら彩度の高い絵は要らないし、自分の好みで仕上げたいと思うから。デジタルでも町の写真は彩度を落とした設定にしてあるし、晴れの日と曇り、雨など天候が異なればAWBなどの色再現を変えている。リバーサルの時代であればフィルターワークで変更するのは常識だったので、面倒だとも思わない。つまり自分の色や諧調表現が大事なのであって、画質の問題じゃあないのだ。ことさら最近はデジタルカメラのアートフィルター系が流行っているけど、あれも一過性で次第に飽きる。下手すりゃブログで同じようなトーンの絵が溢れていたりするわけで。某社のドラマチックトーンがいい例だね。別に気に入ればそれを使うのは構わないが、それで自分の個性とか云うなよwカメラの個性だからww

写真展の会場で「いいアートフィルターをお使いになりましたね」とか褒められても嬉しくないだろう。あるいは機材を褒められたって全然嬉しくないわな。絵の展覧会で「いい筆、いい絵の具を使いましたね」って作家に云うかい?書の展覧会で「すばらしい墨汁ですね」なんて云ったら作家に殴られるかもねw機材の自慢を写真展会場で云う奴は中身がないと思われちゃうよ。

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コメント


はじめまして。
記事を見て少し感じることがあったので、もしかしたら失礼かもしれませんが、 
せっかくのインターネット環境。感じた事を赤裸々にコメントさせていただきます。

私は某大学で芸術(絵)を勉強しています。
写真やカメラは絵ほど長くないですが5年前くらいから好きになりました。


日本人って、絵でも、写真でもテクニカルな部分に拘る人が多いな。と私も常々思っています。 
私の周りで絵を描いてる仲間でも、この顔料が~とか、このオイルが~とか、そんなのに
拘ってる奴らばかりですよ。本当にうんざりです。

そして、私自身は写真よりもカメラ機材が好きな人種でして、ライカとか使って楽しんでるのですが・・・・
写真の世界は絵の世界よりも更に、機材に傾倒して「アート」から遠い人種がすごく多いな~。 と思っています。 まあ私もその一人なんですけど(そもそも、写真で作品作ろうってあまり考えてなかったりもしますが・・・)


写真を好きな人が、自らの写真を「作品」と言ってたり、田中○徳が自らを「写真家」と
呼んでたりするのを見るととても違和感を覚えます。

あんたは自らを作家と呼ぶだけの最低限の学問(写真史とか美術史とか)はしたんかいな? 
あなたのいう「作品」にはどんだけの重みがあるのか?と。
なんとなく綺麗とかカッコイイとか思ったものの写真を撮って、カッコよく綺麗に
写ったものや
悲しいとか嬉しいとか、一時的な安っぽい感情をのせたものを「作品」と言ってるだけじゃないか?と。

芸術ってそういう安っぽいものじゃないでしょう。

写真はフォーマットや機材が一番大切な訳じゃない。
確かにごもっともですが、個人的にはもっと深い所。
「なんで写真を撮るのか?撮る事は私の人生にどういう意味をもたらすのか?生きるとはどういう事か?」
そういう所をどう考えているのかな。もっと聞きたいなと思いました。

投稿: ひろ | 2012年5月24日 (木) 00:09

>ひろさん
コメントありがとうございます!
絵を勉強なさっている、ということでそれは素晴らしいと思いますよ。
音楽、それもクラシックならそういう基本や歴史を学ぶ事は必須だとも思います。
写真が絵や音楽と大きく違う所は、所詮ジャンルが膨大に渡っている事かと思います。
記念写真をただ撮る人に写真の歴史や機材の云々語ってもしょーがないですしね。
また報道写真(日々新聞を飾る写真など)を作品と呼べるかどうか。そこも「記録だから」としか云えないですね。
写真は本来絵を描くための装置として発明された事はご存知かと思います。
精緻な絵を描くのに用いられた訳ですが、そもそも絵を描くのに写真から素材として描くケースはどうでしょう。
一般的に芸術と呼ばれる分野ではそういう過程を踏まないと思います。

絵もシュルレアリスム以降、ずいぶん表現が変わって来たようにぼく個人は思います。
印象派が好まれる人にとっては受け入れがたいと感じる方もおられたかもしれません。

ぼくの場合、写真はマンレイやビルブラントにショックを受けました。その後森山大道氏に出会って以来、町やスナップを好んで撮ることになりましたが、ぼくにとって写真は芸術ではないのです。芸術写真というジャンルはあります。これは日本でも定義されたことがあります。

しかし、日本人が国内で写真を趣味として楽しんでいる場合、多くはアサヒカメラや日本カメラに代表されるような写真雑誌に影響を受けている人が多かったようです。非常にドメスティックで海外では見向きもされないような、今で云うジジイ写真(カメラサークルなどでコンテストを競い合うようなものです)と呼ばれる写真が日本人が好んでいたんじゃないかと思いますね。もちろん、それが悪いなんて思いません。なぜなら、非常にそこに日本の写真産業構造に依存した世界があったからです。カメラメーカーや写真機工業界がそういうものを盛り上げ、日本のカメラを世界一に押し上げた原動力(資金)にもなったからです。

作品とはそこの部分とは全く異なる世界ですよね。仰る通り簡単に写真は撮れるし、人の感情が写真に現れるわけですからその人が「作品だ」と云われたら、はい、そうですか、としか云えません。写真は本当に庶民が自由に楽しめる娯楽でもありますからね。

絵を描く、あるいは小説を書く、詩を書く、歌を歌う、楽器を演奏する。それもみんな自由であり、作品だって云われたらそうですか、としか云えないです。
でも、それを受け入れるかどうかは読み手、見る側も自由なわけです。嫌なら見聞きしなければいいだけなのです。

ぼくの持論ですが「写真は見る人の想像力を奪ってはならない」ということを自分に言い聞かせています。撮り手の気持ちは写真に込められたとしても、それを解釈する自由は当然だろうと思う訳です。したがって「つまんねえな、それは作品レベルじゃねえじゃん」と思われても全然構わないという事です。ぼくにとって写真は表現するものとか、記録とか、想い出とか、様々なものが入り交じっている、まさに自分自身の視神経そのものであると思います。絵は描けませんし(イラスト程度なら描きますが)コトバも下手ですし、文章はもっとダメです。そんな中、写真だけは長く続いている、ということです。

なので本来ならカメラなんて何でもいいはずだけど、表現したいものによって多少こういうレンズで、とかフォーマット、あるいはデジタルの場合諧調や色味などが好みに出し易い機材を使うというこだわりがあるだけですね。それにカメラって嗜好品という側面があります。工業製品故でもあるし、ライカが好きな人はその理由があるわけですからね。ぼくもライカは持っていますがさほど思い入れはありません。ライカのレンズは好きなのですが、例えば東北に持って行って壊れて撮れなかったりしたらとても困りますwので、壊れない機種を持って行くとかは考えます。ライカは丈夫なカメラではありますが、古いライカは消耗している(各部動作がスムーズに動くよう、むしろパーツ同士を消耗させているとも云えます)部品が素人目にはわかりにくいので怖い所があるからです。

閑話休題、写真を生業としている方にとって作品創りというのは、おそらく各自の基準がまったく違うと思います。それが売れる写真ならいいのか、それとも自分の中で昇華したものであり、価値とは無縁のものなのか。それこそ、ぼくのようなまだ写真家とは自称レベルであっても、仕事上名乗らねばいけない場合があるため自分へのプレッシャーで写真家と名乗る事もあります。とても世間の写真家さんとはレベルが違いますからね。しかも喰えていないという事実。

あとは生半可なプライドが邪魔をしていることもあるんじゃないでしょうか。周囲から持ち上げられてしまったり、そうせざるをえなかったり。海外での写真作家さんレベルで日本人が通用するのは相当難しいです。まだまだでしょうね。

でも、だからダメってこともないですよ。自分を追い込んで頑張っている人も多いです。

なんだか中途半端で煮え切らない回答で申し訳ありませんが、こういうコメントは大変嬉しいです。またお話ししましょうね。ありがとうございます!

投稿: ariari | 2012年5月25日 (金) 02:56


返信ありがとうございます。 
とても真摯にお返事してくださって、僕としても嬉しいです。 
新しい発見が沢山ありそうです。
もう少し内容を消化してからお礼を書こうと思ったのですが、とても時間がかかるかもしれないので先にお礼を・・・・  
じっくり読んで、思索してみます。またお話しましょう^^

投稿: ひろ | 2012年5月25日 (金) 20:03

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